アフリカ旅行も今日のケープタウンの観光を残すのみとなりました。明日は早朝から飛行機を乗り継いで2日がかりで札幌に帰ります。思えば遠くまで来たもんです。
今回の旅行の目的はアフリカでも最貧国のひとつであるマラウィの農業を感じることでした。
僕の盟友である帯広畜産大学の谷先生らのグループがマラウィ最大の都市であるブランタイヤ近郊のブンブエの農業試験場で「Improvement of Food Productivity and Food Security By Crop – Livestock Integrated Farming System」(耕畜連携による食料生産および食料保障の改善・・・あってるかな?)という国際協力活動を行っており、彼に誘われたのがきっかけでした。
一昨年から、秋山生命科学振興財団のネットワーク形成事業でアースカフェというプロジェクトをやっています。
このプロジェクトは当初、僕が長く谷先生と共同研究をしてきた成果のひとつである、バイオマスを堆肥化する過程で腐植化を促進することで腐植物質という安定的な有機化合物をつくり、これを土壌に施用することで、農地の地力向上、家畜排泄物等のバイオマスの有効活用、耕畜連携、地球温暖化など、農業、農地の持続的保全とさまざまな間接的効果を得るために立場の異なる関係者がひとつのテーブルにつき議論するネットワークを作ろうという目的がありました。
考えてみれば、この目的はかなり壮大なテーマであり、ネットワークを構成するプラットフォーム・メンバーのひとりひとりが俯瞰的な立場で農業という産業を見れなければなりません。技術論よりもフィロソフィーがなければ前に進まないということがわかりました。つまり部分最適ではなく全体最適を考えることです。全体最適を考えれば、部分的には不合理なことが発生します。そこで生まれる利害関係につまずいていては前に進みません。
案の定、このプロジェクトを実際に起動してみると、部分最適の主張が支配的になってしまいます。それは国の農業政策であったり、農業試験場等がいう「普及すべき農業技術」というものであったり、消費者が主張する「安全、安全」だったりします。部分最適の主張の多くは、他の主張との対立を生み、それらをすべて肯定しようとすると全体的には大きな矛盾が発生します。部分主張は必ずしも否定されるべきものではなく、フィロソフィーの多様性を許容しなければなりません。つまりもっと大所高所から農業を見つめる必要があるのです。
「大空から全体を俯瞰する鳥の目と、地をはう虫の目の両方を持つ」ということです。
このプロジェクトでこれまでに6回開催したアースカフェは、農業の現場で農業を感じることを第一の目的にしています。部分最適の主張を押し付けるのではなく、アースカフェに参加する人たちが、立場の異なる様々な人と交流することで農業に対する自分なりの哲学を「なんとなく」考えてもらいたいというものです。
実際にアースカフェを開催して感じたのは、やはり我々は農業の本質との接点をあまり持っていないということでした。農業を感じること、農業から食や生活を考える機会があまりにも少ないのです。都会の人は食はレストランやスーパーから提供されるものになっています。農業の現場からみても誰が食べるかというのを意識しにくくなりました。つまり、畑(田んぼ)と食卓の距離があまりにも遠いのです。みんなが受け手になっているように思います。
考えてみれば現在の産業別就業人口での一次産業従事者はおよそ4%程度です。40~50年ほど前は働いている人の半分は一次産業従事者でした。ということは、自然と農業は身近な営みだったのです。
今回のアフリカ旅行では、アフリカ最貧国の農業の現場を感じることが目的です。前の日記にも書きましたが、マラウィの産業別就労者率はおよそ85%です。そして国民の約95%が、自分で畑をつくり主食であるトウモロコシを自給しています。まさに、生きるための農業なのです。
農業技術も十分に普及していません。肥料や農薬などの農業資材も偏在しています。肥料をまけばトウモロコシの収量が増えます。肥料を買える農家は過剰に肥料をまいています。肥料が入れられなければ極端に収量が落ちます。トウモロコシの品種も自家採種のローカルなものから、大手種苗メーカーが開発した収量の高いハイブリッドもあります。当然のように連作が行われています。連作障害も出るでしょう。
実際に道路沿いに果てしなく広がる畑を見ても、立派に成長したトウモロコシもあれば、茎が細く倒伏しているもの、実のならないものなどさまざまです。
農業技術やマネジメントが普及すれば食料生産は飛躍的に増大するでしょう。でも、それが必ずしも全体最適になるかといえば、そうとも言い切れないように思います。農業は食や暮らしと密接な関係性を持っていて、長い間、それで幸せだったのかもしれません。合理的である。あるいは最適であるということで、我々の価値観を押し付けることが本当に良いのでしょうか?
マラウィの村で出会った子どもたちは、みんな裸足で暮らしていました。服もボロを着ていました。少しだけ垣間見た生活も我々がいう文化的なものとは程遠いものです。煮炊きはかまど、といっても石を組んで薪を燃やしているだけです。電気もありません。でも、可哀想だとは思いませんでした。むしろ、子どもたちの天真爛漫な笑顔と澄んだ瞳に見つめられると、その瞳を直視できないのです。こちらが汚れていて、病ましいようにも感じます。
先日、NHKで中国や韓国、欧州各国が競うようにして途上国の農地を買いあさっている「ランドラッシュ」が放映されていました。マラウィはまだ過激なランドラッシュは起きていないようですが、いずれ、先進国が入って農地を集約的に管理し、食料を自国に輸出するようになるでしょう。そうしないと、自分の国が食べていけないのです。
日本も食料はほとんど輸入にたよっています。いまのところ、海外の農地を買いまくっているということはありませんが、自国の農業だけでは国民の食、生命を保障することはできていません。
農業は食料の生産であり、食は生命を支える行為です。文化、文明を持ってしまった人間の生命の源泉は農業であることをあらためて感じました。したがって、農業は持続可能でなければならず、産業としての農業を育成しつつ、農業の本質を常に感じている感性が極めて重要であると思いました。このように書いても、論理的には矛盾があるでしょう。矛盾を許容する。曖昧さを許容できなければならないのでしょう。
アフリカに来て、「これが正しい」ということはないということを感じました。明確な正解を求める必要はなく、流動的ななかにひとつの調和が生まれると感じています。それには思考する能力、人間力、フィロソフィーがどうしても必要になると思いました。まずは自分の目でみて感じること。なんだなと。
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